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October 2014

October 30, 2014

村上春樹「雑文集」320冊目

1Q84を読み返して、それからこの本を読んで、やっとすこし村上春樹っていう人のイメージを持てるようになった気がします。
どういうイメージかというと、「セカオワ」の深瀬くん(と、カオリちゃんがその妻)。というと極端だけど、ひどく繊細で才能豊かな男性がいて、彼を守り抜くことを決めて生きている女性がいる。彼らは彼女たちに守られて、「壁」と直接対立することなく、自分の中に果てしなく広がる猫の国のなかで創造を続けている。彼らの作品世界は日々とぎすまされていくけれど、外に出て壁と向き合おうという意欲は薄れていきつつあるから、壁に対するイメージは子供っぽいままだ。


 


彼の小説を読み切ったときの、物足りなさというか、満ち足りてるけど違和感がある感じが、すこしわかった。彼の小説世界そのものが、あまりにも吸引力の強い別世界だから、抜け出せない感じが残って、夢の続きを見たいような気持ちで、次の小説も読んでしまう。現実世界と重なる部分がない(事象もだけど感覚や感情も)から、ゲームに没頭しすぎたような後ろめたさが残る。
前に進んでいく感じがない。ずっと昏睡状態のまま猫の国にいるほうがいいんじゃないか、という気持ちになる。


 


「この世に生命を受けるということは、外の世界に触れるということだから、安全なところで身を守ることだけでなく、自分と相容れないものと交わって影響しあうことも大切だ」と思う人には、認められない猫の国小説なのかもしれない。これが絵画なら、風景を描こうが人物を描こうが内面世界だけを描こうが、評価軸はぶれにくい気がするけど。


 


あ、「社会性の欠如」っていうやつなのかな。


 


私は、「壁」を作る人が猫の国の出身だったりするといいなと思ってるから、猫の国より外の世界にいることのほうが多いし、二択なら外の世界のことを書いた小説のほうを選ぶ。いやでも村上春樹ほど読んでる小説かあんまりいないかも。本を読んでいる時間より自分のことを考えてることのほうが多い。猫の国というのは自分自身の内面ってことだから、結局のところわたしもあっちの人間なのかな。


 


書いた人のプロファイリングをしたがるのは、読み手としては悪質で本質から外れてるかもしれないけど、そんな感じですこし腹に落ちました。


October 25, 2014

Haruki Murakami "1Q84" 319冊目

日本語版は2年前に読んだ。これは、去年NYに旅行したときにChip Kiddの装丁(ペーパーバックでも素敵)につられて買った英訳。小説を英語でさらさら読めるほどの語学力ではないけど、きわめて平易で難しい単語も少ないので、速読の練習だと思ってがんばってみました。といっても読み始めてからだらだら中断したりしてたので、半年くらいかかった…


 


ストーリーはほとんど覚えてたけど<ネタバレ>タマルも撃たれて死ぬと思ってたのはなぜだろう。あと、Tengoはじつは猫の町から帰ってきてない可能性があるという含みがあると思ってたのも不思議</ネタバレ>。そして、細部までは理解しないままざっくりと読んだ英語版では、日本語のときとはまた違う感想もでてきた、というか、前からむずむずしてたものがもう少し明確に自覚できた。


 


著者が、会社とか国家とか、”なにか大きいもの”を意味する「システム」と呼ぶものに対する関心や知識はおろそしくナイーブだ。会社の英語は仲間という意味のcompanyだし国家というものには奪われるものだけじゃなく恩恵を受けているものもある。自分を社畜と呼ぶ人たちの中には、たいがい、卑下しながら内心それを楽しんでいる部分がある。自分と比べて巨大なものにただ恐怖するばかりで、対峙しない。恐怖が大きすぎる。それが常態化している。それでもこの作品では「対峙」しないまでも「自力ですり抜ける」ことに成功していて、ただ沈黙して内向していた以前の主人公たちより大人になってる。といってもがんばるのは女性のほうだけで、男性のほうは、なにも自分からアクションを起こせないまま終わった。


 


「壁」と「卵」。卵がかよわく善きもので、壁が巨悪であるっていう意味で言ったとは思いたくない。壁はじつは卵が膨大な数、集まったものだ。ということを、鋭い観察眼を持ち続けてきた人が見抜いていないとは思えない。卵のなかには、かよわいまま一人でいようとするものと、固まって強くなろうとするものがいる。固まると実際強いからだ。加害者・被害者という言葉は、あくまでも相対的なものであって、決して絶対的なものにはなりえない。これを絶対的なものだと盲信した瞬間、その人はすでに逆側の壁に取り込まれている。


 


こういう繊細な作品を書く小説家は日本には昔からいるけど、太宰治よりも村上春樹が海外で広く読まれるのは、現代的なところがあるからなのかな。日本にもどの国にも、小説を読む人間と読まない人間がいて、いまどき小説を読む人しかこの小説を読まないから、そういう人には共感できるのかな。世界の中二王、とか言うと怒る人がいそうだけど…


 


ノーベル賞を文学に与えるってこと自体が無理筋な気がするけど(ノーベル音楽賞や絵画賞もないし)、もらった人とまだもらってない人・もらわないままだった人はどこがどう違うのか気になります。


 


それにしても後を引く。あまりいい気分じゃないけど、未解決感が強くて、結論を出したい私のような人間はイヤなハマり方をしますね…。