川端康成「雪国」300
なんと栄光の300回目。
愛読書、佐藤正午の「小説の読み書き」をぱらぱら見てたら、彼が面白いことを書いていたので読んでみることにしました。図書館にあるだろと思って行ってみたらなかったので、文庫本を購入。
「国境の長いトンネルを超えると雪国であった。夜の底が白くなった。」というミニマルでビジュアルな出だしで有名な、あの小説です。
”無為徒食”、働かなくても食べていける妻子持ちの男「島村」はなぜか毎年家族を家に置いたまま温泉宿に滞在している。若い芸者「駒子」は冬ごとに彼の投宿を待っている。投宿中は毎朝毎晩のように、仕事の合間を見て彼の部屋にやってくる。ある冬に島村が温泉町へ行く汽車で乗り合わせた「葉子」は澄んだ声をした一途な娘で、彼はどこか彼女のことが気になっている。駒子と島村の恋は成就するはずもなく、いつか終わる日をうっすらと感じながら二人のあいだに時間は流れていく。…
まるで風景描写みたいにミニマルにビジュアルに、距離感をもって女性が描写してあるのです。それから、「感じたこと」として書かれていることがいちいち共感できるのと比べて、事実描写は詳細をはしょりすぎていてよくわからなかったり、不自然だったり、そういうバランスがちょっと変な感じ。40過ぎてから読んでるからか、難解だとは全然思わなかったけど、わかりにくい部分があるのは確かです。
小太りの中年男「島村」の指を芸者「駒子」が握っているのが美しくない、やせた男の細い指でなければ…と佐藤正午が言うが、それって自分も共感できるだろうか?というのが私の出発点だったのですが、答は「細くないのもリアルっぽいかも」。何度も映画化されるたびに、理想的なスリムな二枚目がこの役を演じていますが、本来は「目立たない男」でよかったんだと思います。
ちなみに前に歌舞伎を見に行ったときに、中村獅童演じる子狐がひょろひょろしててあんまり可愛くなかったのを覚えています。背が高く手足が長い人にはあんまり着物が似合いません。胴の太いまるっとした体型の中年男性のほうが、着物姿が色っぽいのです。というわけで、私が島村のキャスティングをするとしたら…18代目中村勘三郎かしら…。
もうちょっと若くて、もっと枯れててほしいけど。香川照之かなぁ。二宮和也も演じられそうな気がします。
佐藤正午は、島村が「ぶらぶらしているくせに酒も飲まない。小太りである。おまけに彼には妻と、子どもがいる。円満のようだ。(中略)島村という男の人物像がぶれて焦点がうまく結べなくなる。これらの設定のうちどれかが、ひとりの人物にぴったり収まらずはみ出しているような気がする。」と書いています。それは多分川端康成自身が、島村の性格なんてどうでもよかったから?新潮文庫の解説で伊藤整は、「島村は作者の解説では…(中略)…という簡単なことしか分っていない。しかし、殆どそれは、どうでもよいことで、…(後略)」
と突き放しています。島村は駒子を輝かせるためだけの端役で、印象が薄くぼんやりしている方がいいと意図したのでしょうか。
もっというと著者自身、自分のことも同様にうすく感じていたのかもしれません。年表を見ると15歳までに近い親戚全員を亡くしたそうで、”どうせ死ぬんだし”という感覚が身に着いていたかもしれません。自分と違う、輝いている若いものに出会うと、まぶしい一方で、”どうせ死んじゃうのに”というむなしさを感じる…というのが、枕草子以来の”もののあはれ”っていう感覚なのでしょう。
さて気性が激しく情が厚く、芸達者な駒子を演じるのは誰がいいだろう?
どちらかというと山の女性らしいたくましさもある。前田敦子とか長澤まさみとか。(芸達者?)
思いつめる性質の葉子のほうが先に決まりそうです。目の鋭さだけで黒木メイサというのはちょっと安易で、多部未華子かな?
映画化されたものも、見てみようかな。自分が思い描いたのとどう違うか、感想を書きますね。
以上。
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