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August 2011

August 30, 2011

黒澤明監督「素晴らしき日曜日」278

それでもDVDは届き続ける。(from TSUTAYA)ので、見る。

この作品を借りてみた理由は、1947年と古いこと、意外にも黒澤作品だということ、ジャケットが明るくて素敵だと思ったこと。でもかなりウェットな映画で、暗いシーン六割強でした。

主役の若い二人はとにかく貧乏で、日曜日にデートをしても所持金は二人合わせて35円。(wikipediaによると今の3500円くらい…けっこう持ってんじゃん)一見オシャレな二人なのですが、よく見ると穴のあいた靴をはいていたり、レインコートの下に着ぶくれていたりしていて、お金持ちからバカにされたりします。

戦争が終わって2年。せっかく生き延びても彼は友人と下宿、彼女はお姉さんのところに住んでいて、一緒に暮らせるのはいつのことか。

戦後の都会にはズルイ奴らが跋扈していて、純真な彼らはすぐにひっかかっては、そのたびに凹みます。浮上、撃沈、浮上、撃沈を何度も繰り返し、すぐ世をはかなむ彼。一方彼女は根が明るく、泣いてもケロっと笑う朗らかさがあるけど、荒んだ孤児を見たり、押し倒されそうになって彼に「お嬢さんだな…おれたちもこれまでか」などと言われて、長いこと泣き崩れたりもします。

64年後の未来から彼らに「大丈夫、このあと日本はすごい高度成長期に入るから、だんだん生活も楽になるし、年金だって満額もらえて老後は安泰ですよ」と言ってあげたい。

私も若いころ貧乏で「二人合わせて3500円」的なデートをしたこともたくさんあるけど、笑点の公開録画行ったり(\0)、中華屋を出るときにお金が足りなくてまけてもらったり、楽しかったし、貧乏であることをはかなむことはなかった。バブルの時代だったけど。この映画の中の人たちは戦争に心をむしばまれてしまっていたのかな。

当時の黒澤明は37歳。彼女役の中北千枝子(のちの「ニッセイのおばちゃん」CMの人です)はまだ21歳。彼役の沼崎勲は31歳。(この映画のわずか6年後に早世してます)
彼女がやたらと指をかんだり、手で演技したり、部屋のすみっこで泣き崩れたりする演出(実在しない女性像シリーズ)をみると、やっぱりああいう男映画をたくさん撮る監督の女性像ってのは、こうなるのかなぁと思います。

それにしても強く印象に残るのは、パーマネントをかけた彼女の素敵な髪、彼の帽子と堅く巻いたマフラー、全編に流れるクラシック音楽…といった、ファッション雑誌が「今、戦後の日本映画が新しい!」かなんか特集を組みそうなシックさ。その枠に押し込められた戦前の日本的な世界観。そして何をやっても蔓延している暗い戦争の影。

このシックさは洋物のオシャレな映画の影響にちがいないと疑って、wikiでこの映画公開前年である1946年の作品を調べたら、良く似たタイトルの「素晴らしき哉、人生!」というアメリカ映画が見つかりました。「映画監督の黒澤明が雑誌文藝春秋で選んだ『黒澤明が選んだ100本の映画』のうちの一本である」というエピソードも書かれています。これ以外にもたくさん見てると思うけど、わりと強く印象に残ってたのかもしれません。

私は借りてきた映画を2回見るようにしてるのですが、今回1回目にわけもわからず号泣し、2回目はやけに冷めた目で見ていた自分がよくわかりません。じーっと画面を見入ってると登場人物に入り込んで一緒に凹んでしまうけど、ご飯を作りながら流し見ると距離を置いて見られるということでしょうかね。  

ジャケットがオシャレなので大きい画像にリンクしておきます。以上。

August 29, 2011

立花珠樹「新藤兼人 私の十本」277

ここが元は本のブログだったことが、忘れられてきた今日この頃。
この空前の(自分だけの)日本映画ブーム、いや新藤兼人ブームを生みだした張本人の立花珠樹氏の本をやっと通しで読んだので感想を書きます。立花さま 本のご寄贈をありがとうございました。

この本は、新藤監督の自選による自身の監督作品10本について、著者がインタビューする形で構成されています。その10本は以下の通り。各章に、一節だけでその映画の本質がわかるフレーズ(いずれも監督の言葉です)が添えられているので、合わせて引用します。

1. 愛妻物語「シナリオを才能がないと言われ、足が震えた」(1951年)
2. 原爆の子「アメリカに反抗的なものをつくっちゃいけない、と言われた」(1952年)
3. 裸の島「乾いた砂というのは、乾いた心なんです」(1960年)
4. 人間「内面には一つの毒を持っている。それが人間なんだ」(1962年)
5. 鬼婆「ススキの原に人間がザリガニみたいに潜んでいる」(1964年)
6. 裸の十九才「自分で自分を負けに追い込むな」(1970年)
7. ある映画監督の生涯「ふいに「田中絹代に惚れてるんだ」と」(1975年)
8. 落葉樹「セックスには神が宿っている」(1986年)
9. 午後の遺言状「あなたの見事なしわを撮りたいんだ」(1995年)
10. 一枚のハガキ「突き刺されて死ぬのは兵隊なんです」(2011年)

作品について語ってもらうことの中から、60年間の監督生活が浮かび上がってきますし、これは戦後映画史の一片でもあります。各作品インタビューのあとに関連人物の略歴、年表、作品集といった資料が載せられているのも便利なのですが、見落としそうなところに「老いても転がる石のように-「私」の新藤兼人論」という短い評論もおかれています。実はこれが総括で、監督としての仕事や人物像を全体として語っている重要なところなので、お見逃しなく!

本全体を通じて、監督の心に寄り添って理解者・代弁者に徹していて、評価したり総括したりすることは最小限にとどめていると感じます。私は映画を見てから本を読んで、それから感想文を書きましたが、一通り終わってから今度は本の各章・自分の感想文の順に読み直してみました。面白いですね、こういう見方も。「ああそうだったな」とおさらいしながら、もう1ラウンド楽しめました。

映画はときどき見るていど、映画好きだと思ったことはない…という私がなぜか映像制作と関係のある仕事をするようになって、「映像って何なんだろう」ということをもっと知りたいと思ってました。一人の監督の作品を10本、監督インタビューつきで見るのはとても新鮮で、夢中になるほど面白く深い経験でした。

インタビューで、監督は1つ1つの映画をどのように意図して作ったかをよくしゃべります。「人間」で登場人物を牛や犬になぞらえていたなんて、監督に聞かなければわかりません。種明かしのようなそういう話もとても興味深く読めます。

インタビューで中心になるのは監督を取り巻く人物のこと。脚本家時代の溝口健二とのこと、最初の妻のこと、乙羽信子のこと、殿山泰司のこと、乙羽信子のこと、乙羽信子のこと、…まぁこの人の話が中心になるのは当然ですね。相棒であり最初の妻と母の分身であり看板女優であり。この二人の化学反応がなかったら新藤監督はどんな監督になったでしょう?たとえば、鬼婆という映画を作ったかどうか、作ったとしてもあれほどの鬼気迫る演技をしてくれる女優が見つかったかどうか、という点などは怪しいと思います。

新藤監督は、妥協をしないのですね。「あまりしない」じゃなくて「しない」。自分がいいと思うことをする。運や仲間やいろいろなことに恵まれてできた作品たちなんだろうけど、運をつかむのもその人次第だから、最低ラインとして、人の心を動かすほど真剣に一つのことを続けるってことが必要なのでしょう。映画に限らず。

新藤監督の作品は、若いころの作品にも「青臭さ」は全然ありません。常に地面に足をしっかり踏ん張っていて、無理がなく落ち着いています。でも若いころの作品には、差し迫った危機に立ち向かうとか、熱い情熱を形にするといった激しさがあり、年をとるにつれて涅槃に近づいていくような、おだやかな充足感が増していくように感じました。

私自身は映画の入門書のようなつもりでこの本を読ませてもらったので、ここまで時間をかけて10本の映画をこれから見るつもりでない人(もうほとんど見た、あるいは見る予定がない、とか)、つまり大多数である、私から見れば先輩(笑)のような人たちにどういう風にこの本を説明すればいいのかわかりませんが…。私にとっては「趣味は映画です!」と言える一線を越えるための重要な一冊となりました。

August 25, 2011

溝口健二監督「雨月物語」276

1953年作品。
でも時代物なので、ちっとも古臭くありません。
知的だけど野性的な森雅之、やっぱりステキです。
良妻賢母の田中絹代はとっても可愛い。
そして幽霊になった姫を演じる京マチ子は……美しいというか……いやこれどう見てもお雛様でしょう!でなければ能面と同じ顔です。こんなメイクってありなんでしょうか。

このレンタルDVDは、デッキに挿入するとすぐに本編再生が始まりましたが、画面右下にずーっと「再生開始中です。しばらくお待ちください。」が出たまま最後までいきました。けっこう邪魔。おかげで宮木が殺されたことは、源十郎と同じタイミングで気付いたという始末、、、

巨匠溝口健二監督って、写真を見るとちょっとアラーキーに似てませんか?お二人とも、女性の美しさを心底愛していかに美しく撮るかに心血を注いだ方々です。(←ちょっと無理やり)

姫の魔性の(というか、完璧な人形のような)美しさ vs 田中絹代の真心の透き通った美しさ。
女性からみるとどちらも美しすぎてリアルじゃないんですよね。歌舞伎の女形みたいで。男性から見た宝塚や少女漫画も同じ?それと比べると、新藤監督作品の中の乙羽信子はリアルすぎて夢がないくらいです。
リアルの方がよくて作りものはダメだとか、
完璧に近い美しさを追求するのが映画であって普段着の人なんか出してもしょうがないとか、
感想はいろいろだろうけど、私はいろんな人の作ったいろんな映画が見てみたいです。映画って本を読むより簡単に見られて、感想の共有もしやすいし、面白いですね。さすが動画の力。

ときに。古い映画が古臭く感じられるのは、どれくらい前の作品からでしょう。チャップリンでも50年代の「ライムライト」は古いと思いませんでした。
ヒッチコックはどうだ?サイコや鳥は60年代です。50年代といえば裏窓、ハリーの災難、知りすぎていた男、とか。うーん、どれを見ても、自分の時代のものではないけど古臭い感じはないですね。こうなったら40年代以前のものも見てみたいです。以上。

新藤兼人監督「午後の遺言状」275

1995年作品。
「新藤兼人・私の十本」が、これで完結しました。
時系列でいうと「一枚のハガキ」が最後なんだけど、この作品を最後にして本当によかった。面白かった!完結した!という達成感と充実感があります。
老人をテーマにした映画や本はいくつか見たり読んだりしたけど、この映画は本当に年をとることにうしろめたさがなく、実にすがすがしいです。

老いた大女優が別荘に毎年恒例の避暑にやってくる。管理人もまた老女。そこに、女優が若いころに一緒にチェーホフを演じた昔の女優仲間が、夫と訪ねてくる。といっても本人は痴呆が進んでいて、夫がかいがいしく面倒をみている。…その中で、人が死んだり昔の浮気が明るみに出たりと、これが20代だったら大変な騒ぎになりそうな事件が次々に起こるのですが、もうどうやったって近いうちにお迎えが来るという境地にあれば、何もかもがほほえましく、現実が寓話めいています。

痴呆症の進んだ老女を演じる朝霧鏡子が大変かわいらしいです。まるで少女のよう。40年間夫に尽くして、最後は夫に面倒を見てもらえるなんて、とても幸せなひとです。
杉村春子は女優然としているし、乙羽信子(これが遺作)にも暗さの陰などなにもなく、いつものように田舎のオバチャンになりきっています。

老人文学といえば私のFavoriteの村田喜代子さんですが、彼女の筆のほうが湿ってます。達観したようすを描こうとしても、なんとなくどこか暗い。でもこの映画は「あー見てよかった!私もこんなババアになろう!」と思えます。

印象に残るのは、痴呆症の妻、朝霧鏡子のかわいらしさと、別荘管理人、乙羽信子のマイペースさです。「主役」にならない人の確かなその人らしさ、というのが、生きるってことなんだな~、と。男性監督だから愛情をもって描ける、縁の下の女性たちの素晴らしさ、でしょうか。

観世栄夫に練習をつけてるときの朝霧鏡子の「あか~ん!」
杉村春子に「あんたは水ばっかり飲ませるのね」と言われて「あんたが水が飲みたいっていっただ」とオレンジジュースを取りに戻る乙羽信子。

2回しっかり見ると、エピソードのそれぞれがしっかり重なり合っているのが見えてきてまた味わい深いです。行進曲ふうのエンディングテーマの意味とかも・・・。この映画とてもいいのでDVD買おうかしら・・・。

さて。こんどは結局つごう11本作品につきあった新藤兼人監督についての本を頭から読みなおしてみて、俯瞰めいたことをしてみたいと思います。以上。

August 21, 2011

新藤兼人監督「落葉樹」274

1986年公開作品。新藤兼人版「銀の匙」。(←決めつけすぎ)
「銀の匙」、感想にリンク貼ろうと思ったら書いてなかった…。著者は中勘助、子ども時代に乳母と過ごした満ち足りた時間を丁寧に丁寧に描写し、「読書好きな人のベストテン」内に必ず入る、玄人受けの甚だしい作品。教科書としてこれ1冊を1年かけて読む学校があるくらいの個性的な小品です。
新藤監督がマイケル・ムーアから影響を受けたということはないだろうけど、「銀の匙」は読んでるのではないでしょうか?

この映画の場合、父親が連帯保証人になったために実家は没落していくので、幸せなだけの少年時代ではないとも言えますが、でも甘くやわらかいお母さんの思い出を中心にした、幸せな映画だと思います。

ところで新藤監督は映画タイトルの付け方が地味な気がします…たとえば「銀の匙」に比べて。およそeye-catchingということを目指さないし、インパクトも弱いし映画そのものを引き立てるほどの強い印象もありません。故人の映画監督でも、黒澤明にしても小津安二郎にしても溝口健二にしても、タイトル買いしてしまいそうなものが多いのですが。「落葉樹というのは葉を落として次の芽を出す」と「新藤兼人の十本」の中のインタビューで述べていますが、初老の主人公が愛人らしき女性と過ごす高原の別荘に白樺のような樹木が見えたり、何度か画面に出てくる柿の実が、そういえばあれも落葉樹だったなとあとから思うくらいで、ビジュアルでの印象はありませんし。説明しないとわからないタイトルってちょっと弱いな…という気がします。

本編に戻ります。
監督はこの映画を1986年にあえて白黒で撮ります。新しい手法に走らず、知り尽くした白黒フィルムで撮る。でもなんとなく、昔の映画のようなキツくて鋭い白黒のコントラストがありません。フィルムの品質が良くなりすぎて、階調が増えたおかげで、かえって平べったい画質になったのかな?

それにしても乙羽信子。監督が一番愛した妻と母の両方を演じたのですね。監督にとって母であり妻であり仕事上の相棒であり…「女」であり「対」であり。新藤監督自身だった、と言ってもいいのかもしれません。

今こわいことに気づいてしまいました。
この映画が昔の映画とは違う印象である理由がもう一つ。役者さんのお芝居がお芝居に見えて、リアルな人間に見えないのです。その背景にはTVのバラエティとかでオーバーリアクションをするのが当然になっていて、役者さんも演じすぎるようになっていることがあって、そういうのばかり見て育った私たちも「何かやらなきゃいけない」と思って暮らしている気がします。前に若い女性タレントがインタビューをされて「別に…」と無表情に答えただけでひどいバッシングを受けて国外に逃げ出してしまったことがありましたしね…。本当にマスコミってなにを目指してるんでしょう…おっと本題からずれました。つまり普通の人も、もうリアルじゃなくなっているのです。リアルじゃない人が増えているのです。現実はもうリアルじゃない。では実在する私たちが痛いくらいリアルだと感じられることは、どこにあるんでしょう?

実際には仕事が吐くほど忙しかったり、飲み会が心底楽しかったり、猫を抱くと柔らかくて温かかったり、十分現実は五感を刺激し続けているんだけど…ただ、「感じること」をおろそかにしがちだし、平板で予想のつくリアクションを顔に貼り付けて防御してる時間が長いということなのかな。

…映画自体は、わりあいそういう意味で、銀塩でギラギラしたような昔の白黒作品とくらべて平板な感じもありますが、監督といっしょに浅い夢の中に入ったようになって、思考の広がりをもたらしてくれた作品でありました。以上。

新藤兼人監督「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」273

1923年から晩年の1956年まで、90本を超える映画を監督し続けた日本の巨匠 溝口健二の生涯を、新藤兼人本人による多数のインタビュー映像でまとめたドキュメンタリー映画。1975年公開。

ところで映画監督は「ジャーナリスト」なんでしょうか?(そもそもジャーナリストって何だろう?→参考・Wikipedia
テレビの世界の人は、たとえ今は語学番組を作っていても、自分がジャーナリストだという意識を持っている人が多いように思います。それに比べて映画監督というのはもっと芸術家意識の強いものかと思っていましたが、この映画での新藤監督はジャーナリストです。事実を追いかけて追い詰めて突き詰める。取材対象が顔を赤らめても口ごもっても、攻め続ける。だいいち、昔ながらの日本映画の監督がずっと画面に映ったままなのも変なんだけど、見せているのが背中だけというのも尋常でない景色です。まるでマイケル・ムーアだけど、新藤監督の方が先だ!

ひとりの監督というより、私としては活動写真~映画への歴史として見る感じでした。
もっというと、「近代日本文化史」という感じでもあります。明治~大正~昭和の戦前あたりまでの歴史を肌で理解したい人は、溝口健二の映画を見ると良さそうです。そういう企画上映をやってる映画館があったりするのかな~。

川口松太郎が溝口健二について言う「ヨーロッパに影響されていない、日本的な演出」とか「こういう演出をする人はもう出ないだろう」といったことばが面白いなぁと感じます。奇しくも、日本のアニメが今アメリカやヨーロッパのアニメマニアから言われていることと同じだからです。特に意識しなくても出ちゃう自分らしさってのが、たとえば小さい頃の祭囃子や民謡やおじいちゃんの語り口で培われた間の取り方だったりするのかもしれません。

私たぶん溝口監督の作品ひとつも見たことないので、とりあえず「雨月物語」見なきゃと思います。予約、予約…と。以上。

August 17, 2011

新藤兼人監督「裸の19才」272

1970年公開作品。19才で殺人を犯して死刑囚となり、刑務所の中で独学してたくさんの書物を残した永山則夫の実話をモデルにした映画です。まったく罪のない人たちを殺めることに同情の余地はありませんが、この殺人犯の生きてきた道は見ていてとてもつらく、犯罪にまで追い込まれたことが彼の人間らしさなのではないかとも思えて来ます。

連続殺人犯を真正面から取り上げて、生い立ちから捕まるまでを描いたという意味では、ついこの間見た「復讐するは我にあり」と比較するのが普通かもしれないけど、私の頭に浮かんだのは秋葉原で起こった大量殺傷事件のことでした。

この映画では、極貧の家庭から中卒で集団就職のために上京した青年が、居場所を見つけられず、たまたま盗みに入った外国人住居で手に入れた拳銃で、次々に行きずりの人たちを殺していきます。その貧しさや都会での疎外感はこの時代特有のものに見えるかもしれないけど、私の目には秋葉原の男の子たちとそっくりに見えます。…むしろ、直接の人間関係が昔よりもうすく、ネット上の文字としてしか存在できない今の子たちの孤独は深いようにも思えます。だってこの映画の主人公は女にもてるんだもん。リア充をねたむガキのほうが哀れなくらいです。

給料のいい会社に入れなかったりリストラされたりする理由は、貧しいからでも親が飲んだくれだからでもなく、自分の成績や性格や体力や根気や、とにかく自分自身が原因に他なりません。今の世の中は、全部自分で背負うしかない逃げ場のない世界です。その中で、信じられないようなひどい目にあっても世間的に成功する人もいるし、世間的に成功しても不幸な人もいます。

不運や不幸を何かや誰かのせいにしたり、腹いせに人を傷つけたり、人と自分を比べてひがんだりは、できるだけしたくないです。しちゃうこともあるけど。短い一生のうちに、自分で自分の面倒をみて、すこしでも幸せにしてやるしかないから。…本当に落ちていくかどうかは、そういうふうに考えるかどうかっていうことだと思います。落ちないようにするより落ちていくほうが究極的にその人にとって快いということなんだろうから、それがその人の選択なのでしょう。

なんとなくだけど…本当に愛されたり祝福されたりしたことが皆無な人の感情は、この映画の主人公のように人間的に揺れたりしないと思う。末っ子として可愛がられたり、マラソンで1位になったりした過去の成功体験があるから、もっと与えられるべきだっていう気持ちで焦がれるんじゃないかな?

この映画をみてると、自分がこの映画の中のどこかにいるように、こわいくらい身近にも思えます。ゴーゴークラブの片隅じゃなくてTVのこっち側にいるのは、ほんの偶然。先週の今頃はあっち側にいたかもしれない。さいわいもう私はそれほど若くないけど、それでも平穏な老後はもうちょっと先だなぁ・・・。以上。

August 16, 2011

新藤兼人監督「鬼婆」271

飲み会がなくなってポッカリ時間が空いたので、今日も映画。

1964年公開作品。
芥川龍之介「羅生門」の世界です。落武者を殺して武器や鎧を売って生計を立てている、中年女と息子の嫁。息子は戦で死んでしまい、別の男が嫁に手を出そうとします。生と性への激しい欲望がぶつかりあって、鬼が生まれる…。

こ、こわい…。というのが第一印象。鬼婆怖すぎます。わずか10年ほど前には「百万ドルのえくぼ」と呼ばれた宝塚娘役の超大スターが、ここまでヨゴレ役をやるのか。「裸の島」でもかなりイジメられてると書きましたが、まだまだでした。今度は鬼婆です。

この映画の乙羽信子まだ39歳だそうです。今なら(昔でも?)アラフォー女子とか言ってヒラヒラした服を着てコジャレたカフェとか韓国とか行ってチャラチャラしてる年代です。どのような覚悟があればこの役ができるのか。ここまで演じきれるのか…。

2回目は、監督と佐藤慶、吉村実子の3人が映画を見ながら語り合う、和やかな音声を聞きながら見ました。そうしたら…乙羽信子が(当然だけど)美人で身体もまだキレイだということが見えてきました。中年かもしれないけど老婆じゃないのです。鬼婆に見えるのは演技なのです。すごい役者さんなのです。なにが彼女をこんな演技にまで追い込むのか。それは監督への強い想いですよ、と言えばそうなんだろうけど、そのもっと先にあるのは映画っていうものの魔力??

嫁役をやった吉村実子はこのときまだ19歳。語り合い音声でも、「あのときは何もわからずにただ言われるままやっていた」ということをよく言っています。対照的に佐藤慶は「ほかの人の脚本と監督の指示で演じてるだけなのに、何か考えてるように見られるのが申し訳ない」等と、非常に思慮深いコメントが続きます。佐藤慶って俳優さんは、(役柄なんだろうけど)何を考えているかわからない、ちょっと怖い感じだとずっと思ってたけど、この人もまた映画の魔力にとりつかれて、魂をささげてしまった真摯な俳優さんなんですね。

語り合い音声の中で監督は、白黒フィルムでしか出せない効果など、メイキング的なこともたくさん話しています。これマジメに聞くと、映像制作の勉強になるんだろうなぁ…。

映画が終わってから、歯を磨きながら、顔を洗いながら、考えてみる…。

母親が子どもを殺すのは自殺の一種だというのを聞いたことがあります。
監督は鬼婆という映画を撮ろうと考えたとき、鬼婆役が頼める女優さんは乙羽信子以外にいなかったんだろうな。一番自分に近い存在にしか、自分と一緒にヨゴレてくれとは頼めない。

新藤監督の映画を見ながらずっと「こらえる事こそが人生だ」というようなことを書いてきましたが、私は本当は「人間は自分で思ってるほどには、こらえ性がない生き物だ」というのも真実だと思っています。生き残ったことに罪悪感を感じてきた監督は、我慢すると同時に、こらえられないものを吐き出しながら生きてきたはずです。

しかしこんなに重く厳しい(と、私には思える)関係は私には無理だわ…。
次はもちょっとユルく、軽い作品が見たいです。・・そんな作品ないか。

August 14, 2011

新藤兼人監督「一枚のハガキ」270

ここまできたら、とことん付き合いましょう!
ということで、ちょうど上映が始まった新藤兼人監督の最新作を見に行ってきました。
日曜の午後のテアトル新宿はかなりの入りで、危うく立ち見になってしまうところでした。観客の多くがおそらくシルバー料金…映画館としては大人料金を払う人の割合がもちょっと多い方が嬉しいかも。

第二次大戦が終わって4年後の日本。夫が戦死した後夫の弟と再婚したのに、新しい夫も戦死し、残された夫の父と母にも死なれて一人で暮らしている女を演じるのが、大竹しのぶ。彼女の最初の夫から、ハガキを託された男が豊川悦司。彼は戦争から生きて帰るのですが、帰ってみたら妻が自分の父とできて出て行ってしまい、家を売ってブラジルに移住しようとしています。

皆苦しい思いをしているけど、あかるい映画です。地面に足を踏ん張って生きていくことに関して、もう悲壮感はありません。こらえてこらえて、時に爆発するけれど、それでもまたこらえて生きていく映画です。

100人のうち94人が死んで、生き残った6人のうち一人が自分だ、と監督自身がどこかで言っていました。トヨエツはそれとまったく同じことを口にします。生き残ったのは「くじ」だ。くじで宝塚に行かされたものが生き残った。…それを聞いて大竹しのぶはくじじゃあしょうがないと思い、やっともう誰もいない家を棄てて、彼についてブラジルに行こうと決意します。

しかし彼らは結局行きません。逃げることではなく留まることが大切なんだ、というのが常にこの監督の視点だと思います。この映画は、生きてるうちに監督がどうしても伝えたかったことなんだろうな、と思いました。

主役の2人の演技は安定しているし、村の有力者をコミカルに演じる大杉漣も良いです。しかし映画館にまで赴いても、どうも映画の中に入りきれないのは、役者さんを見慣れすぎているからかもしれません。大竹しのぶを見ると「ねね」(大河ドラマ「江」ですね)に見えるし、肉づきが良くなったトヨエツを見ると「オッチョ」(映画「二十世紀少年」)に見える。そんなことくらいで色眼鏡がかかってしまうのは見る自分の方の問題だと思うので、DVDになったらもう一度見てみようと思います。

これで完結するんだな…としみじみ感じた一作でした。以上。

新藤兼人監督「人間」269

1962年公開作品。4人が乗った船が台風で流されます。備蓄食料が尽きてくると争いが起こり、やがてさらに恐ろしいことが…。

感想:「……。」
どんどん重くなっていきます。ここまでいくと商業的には厳しくなっていくんじゃないか、どこまでいっちゃうんだろう新藤監督、と心配になってきます。(その後も活発に作品を作り続けて今もお元気なのは明らかですが)

途中までは、先日見た「マタンゴ」に似ていますが、乗組員が遊興目的ではなく商売のために乗り込んでいるところが違います。キノコが出てこなくて、どんどん飢えていくところが違います。結末も全然違います。でも、極限状態で人間が自分自身の内面のドロドロと闘うことを描こうとしたところは同じ。

監督はほんとうに強い人なんだなぁと思います。こつこつと積み重ねることを続けてやっていける人、やってきた人。やってはいけないことをやる人を目の当たりにしてきて、人はそうなってはならないと深く感じたんだろうなと思います。殿山泰司演じる船長が監督に重なって見えます。金毘羅さんの素朴な信仰も、宗教というよりは「おかあさーん!」とか「Oh my god!」と同じで、自分をつなぎとめておくためのおまじないのようなもの。揺らぎながらも道を踏み外さないことが強さなのだと、訴えかけてくるようです。

自分はどうだろう?人の道、みたいなものに関しては頑固な方だと思ってたけど、自分って大したことないなぁと思うことがだんだん多くなってきています。作品を通じて人を揺さぶることができるのは、それだけの強さがあるからなんだろうなぁ。画家や書家を見てそう感じることはよくあるけど、映画はもっと、それ自体が会社みたいな集合体だと思ってました。でもそうではないのかもしれない。とこの作品を見て思いました。

August 09, 2011

新藤兼人監督「裸の島」268

1960年公開作品。「モスクワ国際映画祭」グランプリ受賞。
この映画は、事前の情報なしでいきなり見てよかったです。
「原爆の子」の次の「裸の島」だから、きっとにぎやかに市井の人々を描いた力強い作品だろうと思って見たら、一向にストーリーが動かない。せりふもない。なんて単調な映画なんだろう…と思ったときに気がつきました。この映画には一切のせりふがないのです。そして登場人物の4人家族は、単調に単調に、ひたすら砂漠のような島の畑に水桶を運び続ける、島の唯一の住人なのでした。

その次に「ひどく重いなぁこの労働は」と思い、やがて「いや、これはない。現実にはありえない労働を描いてるんだ」と気付きます。

これは「シーシュポスの神話」なんだな。「大草原の小さな家」ではなく。

シーシュポスの神話というのはカミュのエッセイに出てくる神話で、「シーシュポスは神様の怒りを買って、ひたすら大きな岩を山頂まで運んで行き、転がり落ちたらまた山頂まで運ぶという一生を送る」というようなお話です。「裸の島」の夫婦は、あえて苛酷に設定した世界の中で、ひたすら辛い労働を続けます。

一方US開拓時代を描いて、人気TVドラマシリーズになった「大草原の小さな家」には、苛酷な自然の中に常にほかの家族との助け合いやふれあいがあるし、温かさが常にあります。

「裸の島」は、シーシュポスの神話よりさらに地面に近くて体温が感じられて、赤い血が流れています。「大草原」のような生きる喜びはほとんど描かれません。途中からは、「それが人生なんだよなぁ」と思いながらは見ていました。映画の中の生活は本当に厳しいけど、労働ではなく職場の人間関係や家庭のことで、このような砂漠のような心を抱えてる人もたくさんいると思います。

観終わった後でスッキリすることは何もないけど、裸の島に水を注ぎ続けるみじかい一生と、上司にイジメられ続けるオレたちの一生と、結局どっちを選ぶかなんだよなぁ。どこに行っても人生ってこんななんだよなぁ。と思えれば見たかいがあると思います。

人生はgoing concernです。常にいろんなものをケアし続けなければ回らない。辛いことをたくさん経験したければ長生きすればいい、というようなものです。若いころはその事実を辛いと感じたけど、今はたくさん辛い思いができればお得だと思ってるくらいです。だから人間はすごいし、生きることは楽しい。

しかし新藤監督、どこまで乙羽さんをイジめるんでしょう…。
「原爆の子」まではあんなにふっくらとして豊かだったのに、すっかり痩せて人生に疲れた表情が出ています。うすくなった体で重い水桶をひたすら運び続ける。新藤監督って人は、素晴らしい仕事をしてる人だけど、私が乙羽さんの友達だったら絶対に別れろって言うだろうなぁ。それでも乙羽さんはくじけない。その意思の強さに、監督はさらに苛酷な課題を与える…そんな厳しい愛情だったのでしょうか。

「新藤兼人 私の十本」で立花珠樹氏は「シナリオライターとして出発した言葉の世界の人が、言葉のない映画を作ろうとしたことが、新藤さんのすごいところだ」と言っていて、本当にそうだなぁと思いました。とても実験的だけど、行き当たりばったりではなくて、ずっと温めていたイメージをどこまで純粋につきつめられるか実験したようなすごい映画の挑戦だ、と驚いた一本でした。以上。

August 05, 2011

新藤兼人監督「墨東綺譚」267

今回のNGワード:「体当たりの演技」

軽く見られる作品はないかな、と思って借りてみました。1992年、今から20年も前の作品だけど、この監督の作品の中では新しいほうです。

永井荷風が自分の小説の主人公となって、小説世界の中の遊郭を回ります。自分の娘ほどの遊女のところに通ってはそれを小説に書く、という毎日。コレクターのように女性たちのことを書き残す。ときに執心して追いかける。

男性は、自分の性の衰えを生命力の衰えと感じて胸を痛めるものなんでしょうか?
この映画には私にはストレートに訴えてくるところがなくて、何を伝えたかったんだろうと考えています。この映画をキューブリックのアイズ・ワイド・シャットと比べるのは単純すぎるのかな。

村田喜代子の小説の中には、女性が「白いスカートを気兼ねなく着られるようになってから、楽に生きられるようになった」というようなことが書いてあったりして、女性にとっては性から解放されることが心の平和につながる部分もあります。男性は逆なのかな。一概に言えるものではないだろうけど。

さて、出演者ですが、津川雅彦はぴったりだけど「いかにも」です。実際の永井荷風の風貌はむしろ”お兄ちゃん”(わたしの好きなSparksのロン・メイル)によく似ていて、もーちょっと線の細い人が演じたらどんな感じだったかなーと思います。(新藤兼人作品的には、宇野重吉とか…あ、もうこのとき亡くなってますね、すみません)

で、荷風が晩年通い詰めた遊女「お雪」を演じた墨田ユキがとても良いです。美しい体をほめるサイトはほかにたくさんあるのでいいとして、自然で明るい演技で、けなげさを感じさせます。

では、今日はこのへんで。

August 04, 2011

新藤兼人監督「原爆の子」266

戦争の記憶がまだ新しい1952年に作られた映画。まだ壊れた家の跡が石ころだらけのまま残っていたり、生き残った人たちが突然発病して亡くなったりする時代です。乙羽信子が、終戦後6年たって初めて広島に戻る幼稚園の先生の役。当時3人だけ生き残った園児たちを訪ねるのですが、家族や本人が発病したりしていて、「生き延びてよかった!」とは喜べません。

この映画で彼女は、ふっくらと健康そうな「ある意味無神経な語り部」役です。苦しむ人々を訪ねてあたたかい言葉をかけたり、”ピカドン”で体が不自由になった老人の孫を引き取ろうと言ったり。どんな取材にもある、報道者(と、その後ろにいるたくさんの無傷の人たち)が取材対象者を傷つけてしまうという面を、あえて残してあると感じます。でもここで彼女は自分自身も家族と一緒にピカドンに遭って、たまたま自分だけ生き残った人でもあり、数年後にこの人にも症状が現れる可能性も内在しています。

はー…
今たまたまこの映画を見て、感じたり、比べたりしてしまうことがあります。
原爆と原発は材料が同じでも性質が違うものなので、同じ症状が起こるわけではないはず。でも気持ちの上では、戦争のような絶対悪的な存在を憎む代わりに何を憎んだらいいのかわからないところが、原発事故のほうが気持ちのやり場がありません。
大切に育ててきた野菜を棄てたり、家畜を殺したりしなければならない人の気持ちは、どこにやればいいんでしょう。戦争も原発事故も人間自身の起こしたことに他ならないけど、有名な独裁者たちに比べて、電力会社の人や政治家の人たちは、愚かには見えても極悪人だと思えないところがどうにもなりません。私自身、無力感ばかりで、何をやっても救われないような気持ちです…。

今この映画を見てよかったことは、生き延びた人がいたということや、その後60年以上、大枠で日本の人たちがあきらめないでやってこられたと、噛みしめられることでしょうか。

…さて、印象に残った言葉づかいについて書いておきます。
この人の脚本では「だって…なんだもん」と理由を強調するときに「…なんですから。」ってかならず言うのですが、実際にそういう言い方をする人を見た覚えがありません。古い言い回しなのかな。
乙羽信子の「さよなら。」は「ら」が下がります。さよならの語源は「左様なら(失礼します)」らしいので、語源をリスペクトしたかのようなアクセントです。が、そういう言い方をするのはこの映画では乙羽信子だけ。

それから、誰でも気づくことだと思うけど、まだ44歳の北林谷栄の老婆っぷりがすごい!この人本当に天才老婆女優だなぁ。

…以上。

August 01, 2011

新藤兼人監督「愛妻物語」265

新妻物語かと思ったら違った。失礼しました。

「新藤兼人 私の十本」をご寄贈いただき、”読んでから観るか!?観てから読むか!?”(どっかで昔聞いたような)と迷ったのですが、1章だけ読んでみたところ、これは絶対映画が先だ!と思い、さっそく入手しました。

しかしTSUTAYA宅配レンタルでは扱ってない。買うかー!とAmazonで検索し、見つかった中で一番安い新品を注文したのですが…届いたDVDは…ジャケットは明らかにカラーコピー、定価1800円と書いてあるのに380円で売っている。これ…大丈夫でしょうか。DVDはチャプターも予告編も情報も何もなく、本編だけ。音声レベルが極めて低くて、初めて最大まで上げてしまった。…でも問題は中身です。とにかく観ました。

中身のことをいうと、日本の映画界をずっとけん引してきた大御所、新藤兼人の監督デビュー作です。脚本家の修業をしていた頃、妻の励ましで苦しい時代を乗り切るのですが、やっと芽が出そうなときに妻は病気でわずか27歳で亡くなってしまいます。そのエピソードを、感傷に走らずていねいに大切に描いた作品です。
主演は宇野重吉と乙羽信子。乙羽信子が明るくて強くて可愛い。宇野重吉は、年齢を重ねて枯れてきたのかと思ってたけど、こんなに若いころから、というか、若いころの方が体が弱そうで線が細いです。何も知らずに写真だけ見たら、結核で死ぬのは夫のほうだと思ったに違いない。

そして感想:この奥さんみたいな人生を送りたかった~!
昔、プロのミュージシャンを目指してる友達に、こんな感じの奥さんがいました。きゃしゃだけど思い切り元気で明るくて、夫の才能を信じていて、いっしょうけんめい支えてた。母が子を思うようだった。彼のことを言うとき、いつもちょっぴり自慢げだった。あの夫婦、今どうしてるかな…。彼女は心底幸せそうだったけど、私はそこまで自分の周りの人を守ってあげられなかった。自分自身、1つの目標に向かってひたすら努力することができないままだった。

ここまで誰かに思われたら、生かされてるっていう気持ちでがんばれるのかな。
一途に努力し続けること。一途に努力し続けている人を心から応援すること。才能のある人の才能を信じること。邪心と闘って勝つこと。自分に勝ち続けること。…学校や職場やいろんなところで、本当に尊敬できる人たちに出会って、いかに自分が調子のいいニセモノか思い知ったけど、思い知ってるくらいが、やっと少し謙虚になれてちょうどいいかなと思う。

憎しみの連鎖からはなにも生まれないけど、愛することで人はパワーを得るし、与えられるし、そうやって生まれた作品で人を感動させることもできる。語弊をおそれずに言うと、女性の仕事は夫や子供を愛することなのかもしれない。(男のほうは、心から尊敬されて大事にされるような人間になること、かな)

本のほうの感想は、読了してから書くことにします。今日のところは、以上!