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November 2010

November 29, 2010

佐藤正午「豚を盗む」235

うん。楽しく軽く読めた。
エッセイを読むと、人となりがわかりますね。この人根がまじめだけど、一日中家の中の同じ机について1平方メートル内で暮らしてるかんじの、アソビの少ない人なんじゃないかなと、改めて感じます。

この3冊目のエッセイ集(短編小説も含まれてますが)の「豚を盗む」というタイトルは・・・著者が周囲の人たちの出来事をそういった文章で使うことを「また豚を盗んだでしょ!」というらしい。「豚を盗んで骨を施す」ということわざによるものだそうです。

冒頭にサイモンとガーファンクルの「スカボロー・フェアー」の話があります。
2行目の歌詞にパセリとセージとローズマリーとタイムという4つのハーブが出てくるのはどういう意味だ?という話。スカボロという町に立つ市ではハーブも売られている。単に語呂のいいハーブを並べたとか、それぞれにいわれがあるんだとか、いろんな意見がでてきます。わたしはこの章を読みながら違うことを思いつきました。スカボローの市で売られるときに、あの辺に住む昔の恋人がきみを買いに来るかもしれない。彼女に会ったら、よろしくと伝えてくれ、パセリさん、セージさん。とこの人は、市で売られるハーブたちに話しかけているのではないでしょうか?

どこの図書館に行っても「正午派」は置いてないのでまだ読めてませんが、多分わたしは不熱心だけどファンなので、買ってもいいかな・・・。

November 28, 2010

佐藤正午「幼なじみ」234

岩波書店の「Coffee Books」というシリーズの1冊として出版された、わずか68ページで挿絵のたくさん入った、大人の絵本って感じの書き下ろしです。
幼なじみの女性のニュースを見たことをきっかけに、時間をさかのぼって彼女との思い出を徐々にたどっていく、という流れは、最近の著者のものではないかと思ったら、やっぱり2009年2月に出た新しい作品でした。

なつかしく、さりげなく、あたたかく、かなしいお話。
でも「さかのぼる」という時間の流れは、自分が年をとって未来より過去が長くなるにつれて、避けられなくなっていくんでしょうね。

ビンボーで才能も何もなくても、「いつか」「もっと」と目を輝かせていたころの自分が羨ましくなってきます。
以上。

November 25, 2010

金津佳子/宮永博史「全員が一流をめざす経営」233

川越胃腸病院の経営について1冊みっちり書かれた本。
綿密な取材や大学院のゼミでの研鑽のおかげで、この病院の強みの本質にかなり近づけたのではないかと思います。その真摯な姿勢と努力に敬意を表します。

ただ、この本にこれほどのページ数は本当に必要だったのかな?内容がこれだけいいのに、編集が散漫な印象を強く受けます。どうも、読み進むうちに、「あれ?これさっきも書いてあった」とか、逆に「あ、これがキーワードなんだな。もっと詳しく解説すればいいのに・・・」と感じることが多々あります。宮永氏の「セレンディピティ」とか「理系の経営学」のように、コンパクトにまとまった本とつい比べてしまいます。個人的には、同じ題材、同じ著者たちで、ページ数を半分にした新書本を出し直してほしい・・・。

ところで
「患者『様』」という言葉がこの本の中で、というかこの病院内ではよく使われています。
NHK「みんなでニホンGo!」http://www.nhk.or.jp/nihongo/の2010年4月29日放送で、この「患者様」をどう感じるかというアンケートをとったところ、Go36% No64%でした。病院側のお気持ちは大変ありがたいし立派だけど、患者自身にはびみょうに違和感もある・・・ということかもしれません。あるいは、コトバだけ様付けで理念のない病院があるのがNoが多い原因かも。

以上。

山田正紀「渋谷一夜物語」232

なんとなく図書館に寄って、タイトル借りしました。
ちょっと後悔。
わりと面白かったけど、血が出たり内臓が引きちぎれたり、いちいち露悪的な表現が多いのがちょっと・・・。ただし、どす暗いんじゃなくて、好きな女の子を驚かせようとしてつい表現がエスカレートしてしまった、というような根の明るさが感じられます。作者は酔うと、ばーっといってドカーンと爆発してパーッと散って、みたいなしゃべり方をする人だろうか、と勝手に想像。

要はいろんなところに発表した小品を集めた短編集なのですが、ミステリー作家にそれらの短編を口述させるための仕組みがあって、ちょっと楽しいです。「渋谷一夜物語」と書いて「シブヤン・ナイト」と読ませるらしい。

この次は、なんかこう、もっとマッタリしたミステリーを読もう。うん。

November 13, 2010

林芙美子「浮雲」231

戦時中に仏印(いまのベトナムあたり)に農林省の官吏として駐在していた男 富岡と、タイピストとして赴任した女 ゆき子の、主に敗戦後日本に戻って来てからの凋落を描いた小説です。仏印での生活は、鮮やかな出会いを少々つづっただけで、あとはたまに思い出として回想されるだけ。全編を通して描かれる戦後の東京は、貧しくて荒んでいて猥雑で、富岡とゆき子は愛も生きがいも得られないまま、ただ「浮雲のように」流されていきます。もともと彼らの関係は、楽園のような南方の雰囲気の中で始まったもので、精神的なきずながあるわけではありません。富岡は戻りを待っていてくれた妻に目もくれずに、ゆき子のほかに若い人妻に手を出して、その夫が逆上して刃傷事件に発展したり・・・ゆき子のほうも声をかけてきた外国人としばらく付き合って、また富岡を追いかけたり、むかし自分をてごめにした叔父が始めた怪しい宗教団体にしばらく勤めた後に金庫の金を持ち逃げしたり・・・。

思うに、そんな時代にもこつこつ働いて積み重ねていった人たちも大勢いたはずで、みんながみんなこんな刹那的な生活をしてたら、日本は今も後進国もいいところだったわけで、あくまでもこれは「林芙美子的戦後」であります。登場する男も女も、まじめに一つの仕事を続ける人は一人も出てこないし、実直な人は必ずだまされ、軽薄なやつはやっぱり落ちぶれ、読んでて(ああ、いくら不況っていっても今はずっとマシだ)としみじみ思えます。

とはいっても、これは彼女なりのフィクションであり、極端な形で男女の孤独や焦燥感を描いてこうなったもの。当時ものすごい多作だったらしいのですが、非情に完成度の高い名作です。富岡もゆき子も、どうしようもない奴らだけど、誰でも多分、自分の分身のように身近に感じてしまうのでは。その説得力、登場人物の生々しさ。

早く亡くなってしまって、この後さらに円熟した作品が存在しないことが惜しまれます。

読んでみてよかった。これからしばらく、日本の純文学にふけってみようかな。以上。

林芙美子「放浪記」230

旅行には旅行記を持っていくことにしてます。今回はこの本。昭和44年発行の、河出書房新社版「日本文学全集」の第31巻です。親が買って期待したのに誰も読まないまま放置されていたもので、40年たった今でも手を切るほど新しい。そんなものを海外まで持って行ってあちこちのカフェや機内で読んでた光景は、もしかしたら妙だったかもしれません。

放浪記って本は、漂泊の作家 林芙美子がフランスでの暮らしをつづった本かと思ってました。でも実は、自分の半生をかなり赤裸々につづった私小説だったのですね。とじ込み付録で作家の壺井繁治が、放浪記の中で自分が「洗濯ダライを金も払わずに持って帰った話が書かれているのに吃驚した」と書いてるくらい事実に基づいてますが、登場人物がそういう批評文を書いてるリアルタイム性が面白いです。

解説で山室静も書いてますが、「放浪記」はたしかに初期の作品らしく、数奇な半生をそのままつづった印象で、みずみずしくてとても面白いけど圧倒される筆力!!みたいな迫力ではありません。というわけで、続いて最晩年の傑作「浮雲」を読みます。。