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November 2009

November 30, 2009

佐藤正午「ジャンプ」188

2000年の作品。デビュー作「永遠の1/2」以来のベストセラーで、2004年には映画化もされたらしい。気づかなかったんだろうか、私。
ストーリーは、(サワリだけでもそそる)出張前日に彼女のアパートに泊まることにした男のために、彼女が朝ごはんのリンゴを買いに近所のコンビニに出かけたが、帰ってこずにそのまま失踪した。・・・彼女はなぜ、どこへ姿を消したのか?
佐藤正午なのでまず何よりも正統的な小説であり、登場人物の心の動きが丁寧に描かれています。(だから読者が、えっそんなの不自然!と思うことがない)しかしミステリーとしても完成度が高く、彼女の足取り(事実関係)をひとつずつ追っかけていき、徐々に男の心の動き(内面的なもの)と、最後には彼女の心の動きも明かされる。人の心の動きに無理がないと思わせられる作家なら、数々の伏線から種明かしに至る事実関係の推移も、自然に感じさせることができるわけです。

当時は彼女が失踪をする勇気が注目されたり、そうやってすれ違ってしまうものなのよね、男と女・・・みたいな印象をもった人が多かったようなことがネット検索や書評を見るとわかります。私は「本当にほしいものであれば何としてでも追っかけないと手に入らない」と読みました。たとえば最後に勝つ者は、それだけその対象に強い執着を持っていた。最後にその状態をそのまま保つことを判断した者は、5年のあいだにその状態に執着を感じるようになっていた。失踪当時、彼女と彼は付き合い始めて半年、まだ苗字に「さん」づけで彼女は彼を呼んでいる、彼のほうもまだ彼女との関係に確信をもっているわけではない・・・そのくらいの浅い結びつきであるという設定が、このすれ違いドラマをリアルにしているのですね。

ストーリーを思いついてからこの作品を完成するまでに、作家はどのように考えてどのように推敲していったんでしょうね。読めば読むほど細かいところまで行き届いていて、作家の意図が滲み出してくる、よくできた小説の見本のような作品です。

ひとつだけ文句をいうと、タイトルは私はあんまりいいと思わないなぁ・・・。
以上。

November 28, 2009

佐藤正午「Side B」187

若いころ、好きな作家を聞かれると村田喜代子と佐藤正午と答えてました。幡ヶ谷に住んでた頃かな。
その後x十年たちましたが、二人ともずっとゆっくりとしたペースで小説を書き続けていて、ときどきベストセラーになったり、「文章の書き方」の本を出したりしてます。我ながらいい趣味だった。(過去形?)

この本は競輪が趣味の佐藤氏が競輪雑誌に書いたコラムをまとめたもの。相変わらず淡々としているけど、どこか色気のある文章です。問題は私が競輪はおろか競x一般の造詣がほとんどゼロであること。「捲り」とか「番手」とか言われても意味がつかめず、読み進むのにちょっと苦労しました。
でも、賭け事に熱くなる人の気持ちの動きがじわーっとしみこむように感じられる本です。

なぜかAmazonの書評には彼の本をあのベストセラー作家と比較するものが多い。日常の中の冒険を冷めた頭で描いているというスタイルや、主人公の社会との関わり方の不器用さがなんとなく似ているからでしょうか。私にとってこの2者の違いは、佐藤氏の主人公には惚れるけどM上氏の主人公は好きになれないってところかな。佐藤氏の書評でこの二人を比較する人は当然佐藤氏のほうをべた褒めしてM上氏を悪く言うのですが、M上氏はあの翻訳調の文章や、起承転結があるようなないような流れや、読み終わっても読者が取り残される感じとかがスタイルなのであって、取り残された感覚を新鮮に感じた人たちが彼を評価しているわけなので、この違いは良し悪しではありません。あとは、多分だけど、作家になるまでに読んできたものが違う。M上氏は明らかに洋モノ育ちで、佐藤氏は和モノ育ちなんじゃないかなぁ。と想像します。

なんとなくまた、この本の中の競輪好きの甲斐性なしにちょっと惚れてしまったので、この作家の最近の本を大人買いしてみます。

以上。

November 22, 2009

中村伊知哉「『通信と放送の融合』のこれから」186

Q:この人は何なんだろう?
A:京大出の元官僚で、その後MITや慶応の教授になった人。ただし「少年ナイフ」というパンクバンドのディレクターをやっていたことがある。

世間的にはこの「ただし」以下の意味がわかる人の割合は少ないのかも。”ポップカルチャー”の中身もわかる文化人”にしても、よりによって少年ナイフってところがどれだけ特異だか。

解説:少年ナイフってのは関西の普通のおばさんがやってるパンクバンドです。(私はわりと好きです)素人っぽいけど、その音楽の屈託のない楽しさが世界的にヤケに受けて、アメリカの当時の最先端の音楽シーンで熱狂的に受け入れられました。ポップカルチャーの輸出の大成功例でもあります。彼女たちがニルヴァーナの前座でツアーに出たのは90年代だから、かなり先を行ってる感があったし、度肝を抜かれました。

中村氏がこのバンドの具体的に何をしてたのかわからないけど、そういうコアでアングラで濃いところにどっぷり浸っていたことは確からしい。官僚を経て大学教授になり、日本の通信や文化の政策を語る人の中に、語られている文化の中身を本当に体感できている人は少なそうだけど、もし中村氏こそが少年ナイフをUSへと展開して成功させた立役者なら、この人が政策に関わってることに意義があるかも。

でこの本ですが、1章はお得意のポップカルチャーについて語り、2章では通信と放送の融合政策について意見を述べ、3章では法律改正フレームワークの提案、4章ではそのための人材育成(子供向けと慶応KMD)の話です。やわらかいのは1章と4章で、2章3章は官公庁のサイトからダウンロードしたように硬い。今の、特に放送・通信関連の法律はとてつもなく複雑で一貫性がないことや、コンテンツ・サービス・ネットワークという横軸で分けた法体系にすべきということは、基本的に同感です。難しいと思うけど、私もこれからしばらくWatchしてみようと思います。以上。

November 17, 2009

立花隆・佐藤優「ぼくらの頭脳の鍛え方」185

“俺らお前たちなんかより頭いいんだよ、無理だと思うけど真似できるもんならやってみな”と、私はこのタイトルを理解しました。でも買ってみた。面白かった!ブックリストかと思ったら“俺なんかこんな面白い本読んじゃってんだぜ”“俺なんかもっともっと凄い本読んだぞ”(精神年齢を10歳まで引きおろしたと想定)という読書談義も盛り込んでありました。

本が好きな人って結局似たようなところに行き着くんでしょうか。某授業で教授が薦めた本もたくさん入ってるし、立花氏と佐藤氏のセレクションにも一部重複があります。私のようにものを知らない者が何かひとつのトピックに興味をもって本を探すと、あまりに膨大な点数にびびってつい一番薄いのを買ってしまい、薄っぺらでいんちきでつまらなくて役に立たなかった・・・ということもしょっちゅうです。1万5000点とか3万5000点とかの蔵書をもつ人たちですから、買う前にこの人たちに聞いてみるのがよい。かなり広範なジャンルにわたってるので、手元に置いてこれから本を買うときに使わせていただきます。

とりあえず「プラグマティズム」だけは発注しました。以上。

八代英輝「コンテンツビジネスによく効く著作権のツボ」184

最近ちょっとこういう世界から遠ざかってるなーと思って、できるだけ新しい著作権の本を図書館で探してこの本を見つけました。2006年発行だけど、著作権法は変化が早いから、事例はすでに懐かしく感じます。

表紙を見るとかなり初心者向けっぽいけど、中身はマンガでもなく特に絵が多いわけでもなく、ふつうの法律の解説書です。でも決して難しい本ではないし、事例が身近だし読みやすいほうだと思う。

しかしちょっと物足りない気もします。もうすぐジュリストの著作権判例百選の最新版が出るので、忘れずに買おう・・・。

November 01, 2009

山本七平「日本人の人生観」183

大学院の先生が、これ読みなさいとくださった本。S先生、ありがとうございます。

この本の第一刷は1978年。2005年の時点で第34刷を数えるベストセラーです。著者は1921年生まれの著述家で、1978年は著者にとって第二次大戦終戦が人生のちょうど真ん中、つまり25歳で終戦を迎えて、その後25年を経た50歳あたりでこの本を出したことになります。福沢諭吉は70年の人生の前半に江戸時代、後半を明治時代に暮らしたが、世の中の大きな変化に動じることなく未来を予測できたと言われているそうです。自分も人生の半分を終えたところで世界が一変する経験をした者として、考えるところを述べた、というのがこの本です。

著者はキリスト教徒の家に生まれずっとキリスト教下にあった人で、日本では少数派であることを自覚しており、その独特の視点から「それ以外が多数を占める日本人、日本社会」を客観的に分析しようとしています。

しかし宗教が人や文化を作るって本当?これがどうもひっかかるのです。もっと原始的な民族性みたいなものが人間にはあって、文化も宗教も人間が自分たちなりに作り出してきたものだという意識が、私にはあるようなのです。

私は無神論者ではなくて信心深いほうなんだけど、神あるいは別の名で呼ぶなにか偉大なものを、どう設定してどう信仰するかは絶対的なものではないと思ってるし、その相対性を認めない限り宗教戦争はなくならない(ので、そういう相対的な認識をしたほうがいい)と思ってます。あるいは、人間ごときに本当の神の摂理を理解するなんてことは無理なので、自分の知っている(つもりの)ことが正しいと信じて、そうでない人に説教したり攻撃したりするのは傲慢だ、と思ってます。みんな自分なりに、自分たちなりに、少しでも理解しようとするだけ。その努力はとても重要だし美しいけど、誰にもマスターできないものに立ち向かっているという意識を忘れちゃいかん、と思うのです。

だからこの本は、日本にいま住んでいる人たちが今までに培って築いてきた文化や宗教を語るのであれば納得できるんだけど、最初に宗教ありきで、日本人は仏教や神道であってキリスト教ではないからこうだ、と語られることが腑に落ちない。

でも、はっとするような指摘はたくさんあります。日本人は「自然に合わせる」といいつつそれは現在の状況が未来永劫変わらないという前提で「現在の社会のあり方にあわせる」という意味であって、この先政権が変わったり戦争が始まったり終わったりするかもしれない、金融市場が暴落するかもしれない、という感覚を持てずに終身雇用を信じているのである。しかしいったん「自然」が変わり、終戦を迎えたりするとあっという間にその外圧に過剰適応して急にアメリカのライフスタイルが浸透する。・・・その通りだと思います。

ただ、「日本人は波風立てずすべて均質に、高さの揃った稲穂のように生きることを旨とする」といわれても、昔も今も破天荒な人はたくさんいたわけで、今の日本にも小学校に行けばクラスに1人くらいいつもバカな回答をする子供がいるはずだし、「みんなが均質を志向する」んじゃなくて「異質なものを無意識のうちに無視する」というほうが正しいと思う。自分の内から均質志向が出てくる人ばかりではないけど、上から多数の人たちを見たときに、均質なものとして認識して、まとめて処理しようとする傾向があるんだと思うのです。

日本人が戦時中外来語を全部墨で消して「なきもの」として扱い、戦後はこんどは軍事教育用語を全部墨で消したのは、歴史的経緯を含めていかにして今に至ったかをキープするのでなく、新しい絶対的なルールに従うことのほうが楽だという感覚があるからだ、という指摘も鋭いです。後々役立てるために経緯を記録しておいて(機械的にではなく)、本当に後で見直す、というのは難しい。でもこれ、一般の会社レベルでは日本の人のほうがまだちゃんとやってて、アメリカ人の方がまるでできてないような気もするんだけど、この現状を著者が見ることがあったら、どう説明したでしょう。私には今の状況が日本は日本らしく、アメリカはアメリカらしいと思えます。

しかしわずか152ページなのに、何度も読み返して、ずいぶんいろいろなことを考えさせられた本でした。自分を振り返って、自分の考えをはっきりさせるのにとても役に立った気がします。やはり、人が真剣に何かを伝えようとするパワーってすごいですね。著者にどれだけ共感できるかというより、自分がどれだけ得るものがあったか、という観点で大きなプラスでした。以上。