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June 2009

June 28, 2009

やまだないと「家族生活」 in 文芸別冊、他 159

このマンガ家はかなり昔から知ってるけど、エロマンガを描いてる男性だと思ってた。当時流行の、スタイリッシュな感じの絵と、突き抜けた感じのやばいストーリーが印象的だった。そういうイメージがあったので、ちょっとチュウチョしてたけど、この人の本をとうとう買ってしまった。

「家族生活」って本は、ゲイの中年カップルが誘拐してきた女の子と一緒に、定住せずにずっと旅を続けている話。10年以上前に連載されたものだけど、完結してない。完結しなくても許されるマンガ家は江口寿史とこの人しか知らないので、きっと大したものなんだろう。で、「文芸」がやまだないと特集をやったときに、その未完の作品を全編収録したわけ。

感想:おもしろかった。私「私立探偵濱マイク」好きなんだけど、あれみたいなフィクション臭さがぷんぷんする。

この人は「好きな仕事しかしない」と公言している。不満たらたらの私の対極だ。彼女はロングインタビューで自作について語ったりはせずに、未完の作品をさらすことを選ぶ。彼女の妄想(マンガの中での)は、共感はしないけどなんとなくわかるところがある。

一緒に、いま連載中の「Beatitude」ってマンガの1巻も買って読みました。続き物なので完結してから感想を書くつもりだけど、なにかこの人の作品にはやさしすぎて、切ない気持ちを胸の中に抱えてるような人ばかり出てくる。相手を傷つけたくないから、決して爆発させることはない。「家族生活」の12歳の女の子は無邪気な子供を演じ続けるし、「Beatitude」のフジオは押し入れの天井に残酷な絵を描きつつ、人が来ると笑顔を作ってみせる。・・・私はけっこうすぐ爆発しては、周りの人たちを傷つけてきたような気がするな。

西洋占星術、四柱推命等の生年月日がものいう占いの場合、私とこの著者は同一に近い診断が下ることになる。なにかの占いで「若いころに好きなことをせずに我慢ばかりしてきた人は、中年期以降爆発します」と言われたのがずーっと頭の中に響いてるんだけど、私と彼女は我慢するポイントと好きにやるポイントが対極的な気がするんだ。

「ラマン」って本も買って読んだけど、これはちょっとアレなネタなんで感想は書きません。
以上。

柏木博「デザインの20世紀」158

この前にデザイン史の教科書を読んだところ、教科書的で(当たり前だ)工業デザイン、建築、ファッション等のジャンル別に流れを概観しただけだったので、「であんたはどう思うの?何が好きで何が嫌いなの?」と著者を問い詰めたい気持ちでいっぱいになっていたところ・・・

その教科書の編者が自分で書きあげた、この本を入手しました。「文責:本人」って感じで、かなり主観の入った一冊です。そーいうのが読みたかったの。

しかし・・・・
最初の2章は時系列的に流れを追ってますが、研究者ではなく評論家だからか?引用はたくさんあるけど、引用元も論文ではなく評論のようなものが多く、とにかくデータが出てこない。で第3章は「現代デザインの諸相」と題して、主観を述べ続けます。現代の諸相から自分が感じたことを散文としてまとめたいのか、客観的に分析して論じるのか、どっちがしたいのかつかめずに、読んでるほうがウロウロしてしまう。

アートの世界の人たちの文章は、感受性がとても繊細で、言葉選びも丁寧な人が多いなぁと感じることが多いんだけど、なにかを論じる文章になると力を失う人もいる。感じるままを素直に書くことから一歩先へ進もうとしたのに、自己流におちいっている人もいる。自分が1つのことから感じたことを一般化して、世界のすべてのことが説明できると錯覚してしまっている、と思う文章も多い。

この本、とくに第3章は、「現代の広告やデザイン」、「電子時代のデザイン」を俯瞰するものとして読むより、それらに接して著者が感じたものを読み取ろうとしたほうが面白い。

それにしてもデザインって何なんだ・・・。この世界に関する本はビジネス書と違ってとりとめがなくて、何冊読んでも全然わかんないよ。情報収集を続ければ少しは一般的な感覚が持てるようになるんだろうか。ならないんだろうか。まだまだ、どこから手をつければいいかもわからないような有様。一般化が得意そうなアングロサクソン系の人が書いた本でも探して読んでみるべきか・・・。

June 14, 2009

福永武彦・現代語訳「古事記」157

どこまでジャンルを広げる気だ、このブログ。
もう卒業した学校にまだときどき遊びに行って、古典を読むクラスに顔を出してるんだけど、「古事記は古典中の古典、日本人なら一度は読め」と言われて素直に読みました。

いやー面白かった。旧約聖書の比じゃないくらい荒唐無稽で、徳の高い人がめったに出てこない。神様がわんさかわんさかと生まれては、誰かが自分を殺そうとしていると疑って、ばっさばっさと切り捨てる。・・・言うまでもないことでありますが、世界各国の天地創造記というのは、それが書かれた時代の人たちの想像力のかぎりを尽くしたものであり、事実を脚色したものが含まれるとしても、まったくのフィクションです。

伊勢神宮の内宮のかなり奥まったところに入れていただいて、お神楽を見せてもらったことがあるのですが、小さい頃から見てた近所の神社のお神楽とはかなり趣が違いました。きれいな色の衣装をつけた若い美男美女が、ゆったりとした店舗のあかるい音楽に合わせて舞い踊る感じなのです。ブータンの舞みたいに、なんだかのんびりしてるの。大昔の日本人ってこういう風だったのかなぁと思いました。

古事記は、そういう人たちが書いたんだろうな、と感じさせるものでした。かの有名なヤマトタケルノミコトは思ってたより残虐?な戦闘マシンのようだったけど、物語全体にのびやかなおおらかさが感じられるのです。

古事記といえば大昔学校で習ったときに、「やまとは 国のまほろば」っていう詩の一部だけ記憶してたんだけど、全体がよみがえりました。著作権切れてると思うんで、そこだけ引用します:

大和(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば
畳(たた)なづく 青垣
山籠れる 大和しうるはし

(引用したからって解説するわけでもないけど)

以上。