« August 2006 | Main | October 2006 »

September 2006

September 21, 2006

岡野雅行「人のやらないことをやれ!」35

「蚊の針のように細い、痛くない注射針」や携帯電話用の電池ケースを作った、最近話題の「すごい技術をもつ町工場」の一つ、岡野工業の社長(「代表社員」と言ってますが)が書いた本。副題「世界一の技術を誇る下町の金型プレス職人、その経営哲学と生き方指南」。世界一らしい。Newsweekの「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれたらしいです。光る技術をもつ中小企業はたくさんあるんだけど、世界一!がついたり、何かよほど特徴がないと、1社で1冊の本にまではならないんだろうな。

本全体のデザインも、本を書いた社長さんのキャラも、「下町」「庶民的」なので、前書きを見るまで、あの注射針を作った最先端技術の会社だと思わなかった。その社長が終始一貫して「べらんめぇ」口調のまま、自分の生い立ちから会社の今に至る歴史までを語ります。

字が大きいしそう厚くもないので、さらっと読んでしまいました。これは自叙伝ですかね。「経営哲学と生き方指南」とありますから。技術について書いてある部分が少ない!インクスの本では、名高いプロセス・イノベーションについて詳しく書いてあったけど、この本から技術革新について学ぶところはあまりないというか・・・「無理だと言われると作りたくなるのが成功の秘訣」、とかそんな感じの本です。

以下、印象にのこったところ:
p86 そうか、金型屋から見たらプレス屋は青々とした芝生をたたえた「川下産業」なんだ。
川上のことを川下の「下請け」と呼ぶケースもある。川上の人はなんとなく、自分が下請けであるという意識があって、だから難しいとわかっていても川下に進出しようとしてしまうんだな。

あらためて考えてみると、学校のすごいところは、世の中にたくさんある「理論上明らかに失敗への道を突き進んでいる企業」の社員が、失敗まっしぐらの戦略を携えて学びに来ているところ。先生たちにいくら「ぜったい失敗するからやめときなさい」と言われても、社長が行け行けというからには社員としては止める訳にいかない。学校で言い争っても会社の路線は変えようがなくて、それが現実なんだよな~、と思い知り、ギャップのなかで悩んだりしつつ、世間では優良企業とか期待される企業と言われている企業の社員が、ふと転職を考えてしまったりもする。現実社会というものは、生身の人間によって作られているものなのです・・・。

p142 仲介者を省略することで、無駄なコストを削減する・・・ということを、業務のIT化とか合理化をするときにいつも行いますが、ここで岡野社長は「間に入った会社を蹴飛ばすと元も子もなくなる」といいます。営業までやれない中小企業だから、というのもあるんだろうけど、いい関係を継続するためのコストを重視するのは大切なことだ。削減すべきムダな費用なのかどうかを、いつも考えなければ。

September 19, 2006

山田眞次郎「インクス流!」34

製造業にかならず必要となる「金型」は、熟練工が手作業でしっくりと仕上げることでしかいいものが作れないと言われてきました。ミクロン単位の計測や極限までの自動化を実現して、従来45日かかっていた金型作成を45時間にまで短縮してしまった・・・ということで最近評判なのが、この株式会社インクスという会社です。でこの本は、その社長がみずから、"プロセス・イノベーション"成功への道のりを書いた本。

何をどうしたから何が短縮できたのかが、本を読んだらやっとわかりました。
1.工程からあらゆる「待ち時間」を取り去って短縮
2.3D CADを駆使して、データでの受け渡しを可能にしたので短縮
この2つが大きいみたいです。でも、工程から「あそび」をなくせば、ちょっとでも遅れる工程が出たときに収拾がつかなくなる。当初はそれで結局納期が遅れて迷惑をかけたこともあったようです。3D CADも、当たり前だけど2D CADに慣れたエンジニアが習得するのにまず時間も手間もかかる。そう簡単な道のりではなかったみたいです。

この人の意見に100%共感できるわけではないけど、ひとつの改善に成功した人の実話として、読む価値はあると思う。

p28 「日本はいま、今後も残すべき技能と、ITを駆使した新しい生産システムに落とし込める技能とを冷静に分類すべきときにきている。」で、落とし込めるものはどんどん彼らの金型のようにシステム化することによって、日本の強みを活かせるという。

p31 日本はエネルギーの80%、食料の60%を輸入に頼っているから、加工産業みたいなのをやらないと食っていけない、と書いてある。でもそれだけしか方法がないわけではなくて、エネルギーと食料の自給率を上げることも一つのオプションだ。そうしながら、日本の加工技術を輸出せずに内需に充ててもいいし、他の産業を推進することもできる。

ITは道具でしかない、という点は共感する。
あえて反論を見つける方向で読むと、この本は一貫して「製造業」、「消費者の移り変わりやすい嗜好に合わせて開発期間を短縮」ありきで書かれていて、この2点の判断の是非を問う部分が少ない。一企業の社長が自社のことを考えながら書いたからそうなるんだろうな。私は無責任な読者なので、インクスが栄えようがどうしようがあんまり興味はない。日本全体がうるおったり、みんなが幸せになればそれでいいのだ。だから、流行に左右される消費者にコビを売るようなことはゴールにしたくないなぁ。

p138 「いまは、自分が本当に欲しいものを探しても、妥協せざるを得ない。中途半端なモジュール化でお茶を濁す程度である。(中略)個別の大ヒット商品を超える、自分だけの"モノ"、それを提供できる仕組みに発展するはずである。」

ここがこの本のキモだとしたら、この人の考えは私と同じです。
「みんなと違うものを持ちたい」消費者の嗜好に答えるには、やっぱり、1つだけのものを作るのがベストだと思うんだ・・・カスタムメイドっていうか。
どこまでをオーダーメイドにするかは、100%ではやっていけないから、たとえば携帯なら機能は世代ごとに全部同じでもいいの。デザインが違えば、「人と違う感」は出せるだろうから。今は携帯にシールを貼ったりカバーをかぶせたりしてるけど、携帯そのもののデザインをもちょっと根本的にいじれる仕組みがあってもいいのかもしれない。

金型まで作り直さなければならないほどの変化が、本当に消費者が求めるものなのかどうか。そういう高い目線で考えることも大切だと思う。

p143 人間の労働を機械化・自動化すれば、中国で作って人件費を安くする必要もなく、日本で安く製造できる。
うん。私が知りたいのは、彼らが考えた「どうしても人の判断や人の手が必要な部分」ってのは具体的にどういうところか、ということ。彼らのプロセスイノベーションはどのくらい他の業種に生かせるのか。それから、何が失敗だったか。・・・意外な、つまらないところに、成功の蔭の失敗ってのが隠れてることがある。

来年の自分の研究のテーマを決める上で、なにかヒントがありそうなんだよなぁ。もちょっと他の会社のことも勉強してみます。

September 17, 2006

河口慧海「チベット旅行記」下巻33

日本にまだ入って来ていない経文を取りにいきたいけど、チベットは鎖国していて、きちんとリクエストしても入国許可がおりない、おりてもだいぶ先だ、だから中国人と偽って密入国する。というのが慧海の計画です。
行動の人なんだけど、まぁひどくマイペースで、周囲の善意の人は幇助罪でその後尋問されたりもしています。日本に帰国後も、宗教者として大成したという話はなく、一生マイペースのままだったようで、彼の約十年後にチベット入りした多田等観がダライ・ラマのご加護を受けたことと比較しても、なかなかの変わり者だったようです。

彼は繰り返し繰り返し、「チベット人はとにかく汚い、まず一生風呂に入らないし手も洗わずにトイレにもいけばご飯も食べる、」と書きます。チベットの部族のなかには昔人間を食べていた荒々しい部族があることや、ラマ僧の金や性に汚く乱れていることはなはだしい、ということもしきりに気にします。文化的にかなり近いブータンは、実際どうだっただろう。

久々に、1983年NHK出版発行の「秘境ブータン」や自分のブータン日記を開いて、ブータンについて確認。
荒々しいところのまったく感じられない人たちだったのは間違いない。どちらかというと怠けるほうが好きそうな、きわめて穏やかな人たちだった。私の会った人たちはみんな清潔にしてた。(トイレの整備はかなり足りてなかったけど。)

お寺の奥に隠されている「歓喜仏」・・・牛の頭をした男の神様が女の神様を抱いていて、周囲には人間の頭蓋骨や手足が散らばっているというおどろおどろしい仏像や仏画が、チベット同様、ブータンにもたくさんあります。人間は男と女がいてこそ完全な形だ、というのにはagree。自分の一番大切なもの、つまり頭や心臓を神様仏様にささげることによって最大級の献身をあらわす、という考え方はすごいと思う。少なくとも私は否定的には捉えたことがなかったんだけど、慧海はほとんど罵倒します。多分、ああいう形の荒々しい神様を発明したのは、チベットの荒々しい部族の人たちではないのかな。それが広く信仰されるようになって、おだやかな人たちにも受け入れられるような解釈が加えられてきたらしい。

チベットって、ブータンよりももう少し用心が必要な国なのかな。ブータンが面白かったからチベットに行こうってのは、ちょっと甘いのかな・・・って100年も前に書かれた本を読んでそんなこと思っても、しょうがないのかもしれないけど。

おりしも「西遊旅行」の豪華パンフレットが家にまた届いてる。チベットでもネパールでもシッキムでも、ヒマラヤトレッキングでも、7泊8日288,000円で今は誰でも行けるんですよ。「遥かなるブータン」の時代(25年前)を見てても隔世の感があるのに、1900年のチベットの雪山を徒歩で踏破したお坊さんの話というのはもう、遥かすぎて想像のしようがないですね。今は、世界中の秘境専門の旅行社が、お年寄りでも楽に参加できるようなツアーを用意してるので、本当に誰でもどこにでも行けちゃうのだ。エジプトに行ってピラミッドの中に入ったときや、ブータンの寺院で小坊主さんに水をかけてもらったときの気持ちは、行かなければ経験できないので、コレクションをするようなつもりじゃなく、一つ一つ味わえるスピードで、行ってみるといいと思う。一般的にどうだってのは知らないけど、「自分」にとっては、今のほうがチャンスが多い時代だと思うよ。

河口慧海「チベット旅行記」上巻32

会社も学校も夏休みなので、旅行しながらこの本を読みました。日本のお坊さんが1900年に徒歩でインドからヒマラヤの山々を越えて、当時鎖国していたチベットに経文を取りに行くという、とてつもない旅行記。実話です。宗教家であることはもちろん、慧海は初めてチベットに入った日本人で、冒険家としても名高い。植物学者で昭和になってからブータン入りした中尾佐助の著書「秘境ブータン」(これは1960年に出版)等でも触れられていて、いつか読んでみたいと思ってた本です。

私が3年前に旅行したブータンは、チベット語の方言といわれる言語を話し、チベット密教の数宗派を信仰している国です。河口慧海の見たチベットは、現在のブータンとイメージが重なる部分も多いです。私(学問的な仏教の知識のない)が見たブータンの人たちは、みな信心深く、マニ車をただ回し続けることによって極楽に行けると信じていました。彼らが崇拝する偉いお坊さんたちは、でっぷりと太っていたりして、もしかしてその地位は象徴でしかないかもしれないけど、彼らの信じる気持ちが宗教を成り立たせてるからいいのだ、という印象を受けたものです。

でも慧海のような、研究を極めているお坊さんからみると、チベットの高僧としてあがめたてまつられている人たちには、驚くほど何も知らなかった人も多かったらしい。(小乗と大乗、妻帯についての考えなど、同じ仏教者でも意見が分かれる部分があるので、彼の言い分だけ聞いてもかたよってるけど。)私から見れば、本当にすごいお坊さんとインチキ坊主の区別はつきません。これはもしかして、欧米の人がみるとカラテもスモウもカンフーも、形が作れる程度の初心者でも、ソコソコ立派に見える・・・というのと同じかもしれない。

何かもわからずただマニ車を回せば幸せになる・・・と信じでまい進することによって、人の心がおだやかになることは、それはそれでいいと思う一方・・・慧海がちゃんと念仏の意味を一つずつ説明して、それを理解すると、彼が「愚民(昔の本なんで)」と呼ぶ民衆の「目からうろこが落ちる」こともあるんだろうな。宗教の専門家がめざしてるのは、本当はそっちだったはず。

旅行疲れをとるためにタイ式マッサージをやってもらってると、マッサージ師が「運動不足や冷房のしすぎでリンパの流れが悪くなっています」。もちろんリンパ圧だかなんだかを調べたわけじゃない。ファインマンさんが愚かしいと切り捨てたリフレクソロジーは、理屈はともかく、よく効くし具合の悪い臓器をよく言い当てる。・・・これは迷信じゃなくて「先人の知恵」だと思う。

迷信と知恵との違いは、
知恵はおそらく、事実(結果)から予兆をたどってみて、それを何年もかけて検証して正しいと思われる程度の確証を得られ、それが根付いてきたもの・・・じゃないのかな。ex 夕焼けの日の翌日は晴れる。
迷信は、「不安」の行き着く先を求めて自由に帰結を想像したものであり、予兆と結果の間の検証がないから、当たるわけがない。

迷信でも信じることで救われればそれでもいい・・・というのは一理あるけど、ちゃんと理解して一歩一歩進むっていう、人間にしか(多分)できない知的な喜びってのを経験するのは、人に生まれた醍醐味なんじゃないかなぁ、とも思う。

けっこう、普段の仕事も、これでいいと思ってこなしてるだけだったりしないかな?
なにかもっと本当に、わかった上でやりたい、と思ったりもします。

September 14, 2006

宮永博史「成功者の絶対法則 セレンディピティ」31

セレンディピティって何?:簡単にいうと、失敗や偶発的なできごとをヒントとして、それまでうまくいかなかったことを解決できるようになること・・・でしょうか。「偶然の神様」、それを引き起こした出来事、そういうヒントをつかみやすいこと、などの総称。

この本は、たくさんのイノベーションの事例の中から、特にその「セレンディピティ」性にすぐれた事例を多数抜き出して紹介することを通じて、イノベーションを起すための日々の研究開発活動の心構えを順序よく説いた本です。

Amazon等にすでに出ている書評では、特に「読みやすさ」が注目されています。理系の人が書いたとは思えないくらい、科学的な素養がゼロの人が読んでも、用語がわからなくて困ることはなさそうだし、難解なビジネス用語もありません。とても、やさしい文章で書いてあるんだけど、本質的なところは伝わってくる。もしかしたら、ビジネス書を一冊も読んだことのない人の入門編としても、いいかもしれない。難しい本をすでにたくさん読んでる人には、軽い読み物のつもりで楽しく読めると思う。

某大学院の社会人学生たちのことが数回にわたって出てくるので、学生や関係者は嬉しいけど、関係ない人や学校嫌いの人は反感もつかもなぁ(笑)

その某大学院の講義で引かれている事例が多く出てくるので、受講者にとっては全く新規な事例は多くないかもしれない。でも、こうやって「セレンディピティ」という視点でまとめてもらうと、あらためて理解しやすいし、頭に残りやすいんじゃないかと思う。

講義ってのは、聞いてるだけで過ぎて行っちゃうんだけど、先生が一連の講義で学ばせようとしてるものの全体を理解して、咀嚼して、身につけるのは、多分けっこう難しい。こういうのをときどき読み返して、実践してくうちに本当に身についてくるんだろうな。

究極的にこの本が伝えたいのは「デス・バレーを超えるための解を見つけるヒント」なのでしょうか。
この本に載るような事例に関わってみたい、いや、自分で起してみたいです。


September 02, 2006

R.P.ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん」(下)30

下巻を読み終わりました。下巻のほうが面白いぞ!!

なぜなら、子供時代に天才的なイタズラ坊主だった人ってのは大勢いるけど、偉い学者になった後であそこまでやる人は極めて少ないと思われるからです。
あそこ その① たまたま拾ったヒッチハイカーに「ブラジルいいぜぇ~」ってそそのかされて、ブラジルの大学の講師になるところまではよしとしよう。でも楽器を覚えてサンババンドに入ってパレードを練り歩く人はあまりいないと思う。
あそこ その② ラスベガスで詐欺師とうまくやりあったり、女の子を必ず落とす方法を伝授されたり、ヤクザの子分のフリをして取り入ったりする大学教授は、あまりいまい。
あそこ その③ 絵を描こうと思い立ったらちゃんと勉強を始め、やがて偽名で絵を売り始め、行きつけのトップレスバーにかけるための絵まで描いたり、そのバーが摘発されたときに証言台に立ったりまでは、ふつうしない。

そんなわけで、私はこの本をとても盛り上がって、電車の中で声をあげて笑ったりしながら読んだんだけど、最後の「カリフォルニア工科大学 1974年卒業式式辞」がいかん。最初から最後まで悪口だ。

彼の言いたかったことは「ただ一つ、今述べたような科学的良心を維持することができるようにということです。つまり研究所や大学内で研究費だの地位などを保ってゆくために、心ならずもこの良心を捨てざるをえないような圧力を感じることなく、自由に生きてゆけるような好運を、との一念に尽きます。」

よほど彼はそういう圧力と闘ってきたんだろうな。

私は神秘主義的な宗教が大嫌いだけど、超自然的な力を、科学をふりかざして否定するのも少し嫌いなんだ。存在が証明できてないから「ない」とはいえない。科学者のなかには、100%の再現性がない限りそれは偽りだと断言する人がいるけど、偽りであることを証明する方法を考えたほうがいいときもある。

リフレクソロジー=足裏マッサージを一笑するんだけど、彼は多分やってもらったことはないんじゃないかな。
あると証明できてないことは「ない」わけじゃない。「あるかもしれませんね、早く証明できるといいですね」って言ったほうが科学的なんじゃないのかなぁ。ユリゲラーを家に呼んでスプーンを曲げさせてみて、曲がらなかったからそいつはニセモノだと嬉しそうに弾劾してるけど、そこまでやってしまうと科学者のおごりなんじゃないかな。自分がすでに習得した方法で世界の事象のすべてが証明できるなんて、思い上がりだ。試験管の外では、人間が存在をまだ知らないいろんなものがinteractionしあってるってことを、忘れちゃだめです。

「お偉方が、本の表紙しかみないで中身の評点をつけてるけど、それが正確なわけがない」「物理の本を暗記だけさせるだけで、ものを動かして実験しないような教科書はクズだ」等々の彼の考えには100% agreeです。